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第3話 葵の1日

 巨大な白い塔。海藤病院と大理石に彫られたその名のとおりその塔はまるで要塞のような趣で建っている。戦後に建てられた病院で規模は都内でもトップクラスを誇る。毎日、患者はひっきりなしにやってきて診断、治療を受ける。その数は万にも登るかというほど。
 病院の敷地内はどこも人で溢れている。緑の生え揃った庭には入院患者が憩いの場として、散歩のコースとしてしようしているし、病院内のカフェテリアは見舞いにやってきた客でいつでも満席である。
 そんな人で埋もれた塔のなか、一際、人気の少ない部分がある。
 隔離されているわけでもないその廊下には誰一人として歩く者はおらず病院関係者ですら滅多に通らない。病院のなかでも疎外されたような感覚を持つその廊下の最奥には一室だけ妙に金の掛かった部屋があった。
 特別診療室とプレートの掲げられたドアがぽつんと白い壁に備え付けられている。
 ここは外科でもなければ内科でもない。また他の傷の治療を目的とした場所ではない。
 扉の中へ入るとそこはまるで病院ではなく家のよう。床には絨毯が敷き詰められ壁には絵画が飾られている。並ぶ机も無機質なものではなく黒塗りの机である。間接照明や一人用のリクライニングチェアーもある。その全てが庶民の感覚では考えられないほど高価なものである。
 部屋のなかには緩やかな音楽が掛かっている。ピアノの音が水に波紋を作るようにメロディーを刻む。音が紡がれるたびにしんと染み込む。音は二人の人物にだけ向けられている。
 一人、リクライニングチェアに女性が身体を預けている。
 沢木葵だ。休日なのでスーツ姿ではない。だがスーツの上着を脱いだだけだと思えるようなシャツとスカートという格好だった。何も知らない他人が見れば仕事中と思ってしまうだろう。葵はシャツのボタンを鎖骨が見えるほどに外していた。下着は見えないが身体の中心には胸が谷間を覗かせていた。
 彼女はゆったりと体の力を抜いて眠っているかのようだった。目蓋を落とし脱力している。そんな葵を見る者がいる。
 海藤信哉である。白衣を着た爽やかな男はこの海藤病院の経営者である海藤家の一人息子だ。彼はこの病院にこの部屋を作り自分の研究する治療プログラムに専念している。沢木葵は親友の妻であるがここでは患者である。
 流していた音楽が消えると海藤は葵に向かって囁くように声をかけた。
「葵さん、葵さん」
 声は彼女の意識に深く入り込んでいく。
 今、葵の心は意識の奥底にあり深い眠りのなかにある。
「葵さん……起きてください……葵さん、治療は終わりましたよ」
 優しくそっと声をかけて心を呼び戻す。身体に触れることはない。葵が自身で戻ってくることが必要不可欠なのである。
「ん……んん……信哉君……そうか、終わったのね……」
 海藤の声によって現実に戻ってくる。葵はリクライニングチェアの背もたれを元に戻して背筋を伸ばした。シャツのボタンがぎゅっと押された拍子に自分の胸元を見てすぐボタンを止める。
 葵の身体は女性らしさに恵まれており、胸の大きさはグラビアアイドルの谷間よりも深い。中学卒業の頃から急激に成長していき、同じ年頃の男子の視線を集めていた。
「どうかな、肩の力は抜けたかい」
 ボタンを直していると海藤がいった。彼は葵の胸には目を向けていない。出逢った頃からずっとそうだった。葵のことを気にかけることはあったが他の男とは違い紳士であり続けている。
「そうね。昨日よりはずっと楽になったわ。ありがとう、信哉君。やっぱりここで受けると疲れが取れるわ。まるで魔法みたいよ」
「魔法だなんて葵さんらしくないな。これはれっきとした治療だよ。でも肩はこってるんじゃないかな、いつものマッサージ呼ぶ?」
「マッサージか……あの子、凄く上手いんだけど遠慮しておくわ」
 やんわりと断る。腕時計を見ると治療をはじめた頃から二時間も経っている。すでに夕方近くにまで差し掛かっている。葵のいう『あの子』は海藤の助手のような人物でマッサージがやたら上手いのだが時間が掛かる。最低でも一時間は持っていかれる。
「これから事務所に顔を出すのよ」
「今日は休みじゃなかったのかい?」
 海藤は座っていた椅子から腰を上げるとまた音楽を再生した。部屋の壁に設置しているスピーカーがいっせいに波を立てた。
「仕事はね。でもあの事件の後だものやっぱり気になるじゃない。それに仕事がないからって、じっとしているほど私はゆっくりしてられないわ」
 海藤の口から溜め息のようなものがこぼれた。
「葵さんは昔からそうだ。休める時には休むものだよ。だから俺のところへ通うことになる」
 もう付き合いは長い。葵が昔から勉強付けだったことを海藤は夫と同じぐらいに知っている。海藤が葵を診るようになったのも友人としての関係があったからだ。
「今夜、強く言っておくか」
「やめて、実はそういうの凄く気にするんだから。私が通院していることだってあまり良く思ってないのよ」
「だろうね。よく聞いてくるからわかるよ。ああ、治療の内容は伏せてるよ」
「助かるわ」
 チェアから降りるとバッグを肩にかける。
「診察代はいつも通りでいいのかしら?」
「ああ、葵さんは特別料金で無料だ」
「こんなこと言うのもなんだけどお金は取ったほうがいいわよ」
「いつも言ってるだろ。これは俺の趣味でやってるところもあるし絶対の保証はできないんだ。まだ試行錯誤の間だからね。こっちが謝礼を払ってもいいくらいさ。だから葵さんは気にしなくていい」
「本当にありがとう、信哉君」
 診察室を出るとすぐに空気そのものが変わった。病院独特の匂いと足音の反響音に包まれる。葵は一人、受付を通り過ぎて外へと出た。

 海藤病院から職場である鏑木弁護士事務所までは電車での移動となる。学生の帰宅時間とかぶってしまったのか電車の中は制服姿の男女で犇きあっていた。夕暮れが近いことを告げられながらも職場である事務所へ向かっていく。
 家に帰って夕食の仕度をするべきかとも思ったが実の帰宅時間は職場が変わってから21時を回った後になるため急ぐ必要はない。
 鏑木弁護士事務所はオフィス街のなかにある。早い者は仕事を追えて帰路に着いていた。葵は事務所の扉を開き受け付けの事務員や仲間に挨拶をしているとなにやら奥のほうで事務所の所長、鏑木達哉が依頼人と話をしていることに気づいた。
 肩を萎ませ俯く女性ともう一人、彼女の母と思しき女性がいた。
 事務所側には鏑木達哉が一人きりだ。どうも鏑木のほうは真剣ではあるもののどうにも重苦しい空気が流れている。三人の話しているそこだけがどんよりと空気が澱んでいる。
「ねぇ、どういう話なの?」
 いつの間にか今日が休日である事も忘れていた。
「それがね……」
 事務員である渡瀬美菜子が口を開いた。彼女は雑用を一手に引き受けており客へのお茶出しも勤めている。
「どうやらあの娘さんが強姦されたらしいのよ」
「強姦……」
 目を向けると娘のほうはまだ顔を俯かせたままだった。母親がどうにか耳打ちするようにして話をしている。事務所はそれほど広くはなく普通に話せば端にいても聞こえる。だが彼女の声は何一つ聴こえなかった。
 葵はその姿を見てゆっくりと歩みだす。渡瀬は葵を止めなかった。
「もしよかったら私に話してくれない。女同士なら力になってあげられる」
 娘の傍によるとしゃがみこみ手をとった。自分と同じ細く小さな手は冷たく震えていた。俯いた顔に目を向けると目が赤く腫れていた。
「せ、先週のことで、す……」
 それまで母親が伝えていた声がようやく聴こえてくる。繋いでいる手に力が篭もって葵を握る。彼女は精一杯なのだ。葵はもう片方の開いているてを載せて耳を傾ける。
「わたし仕事先の病院で……先生……に無理やりされて」
 今度は鏑木に目を向ける。彼は葵の姿に頷いて口を開いた。
「彼女の働いているのは阿久津病院だ」
「阿久津というとやはり……」
 その病院の名前は葵もよく知っているものだった。なにも彼女が知っている事が特異的なものではない。この街に住んでいるものなら大半は知っている巨大総合病院である。そして先ほどまで葵がいた海藤病院よりも大きい存在である。
「ああ、阿久津議員の病院だよ。で、彼女を……した先生というのがその息子だ」
 言葉を濁らせていった。
 阿久津病院の巨大さはその施設を見れば一目瞭然である。海藤病院が病院という施設だけだというのにこちらは福祉グループもあり日本全国に同じ看板を掲げる病院が存在している。一病院という施設ではなく一族である。
 その阿久津一族のなかでも一人、抜きに出た人物がいる。
 阿久津一郎という男だ。齢七十を超えるが現役の衆院議員で一族全体のなかで最も強い権限を持つ。葵もその人物はよく知っている。鏑木達哉のもとで仕事をしているとやはり彼らのような人物にもめぐり合うことがある。
 実際に彼と会った事は一度しかないが良く憶えている。短い髪をした面の皮が厚そうな無愛想な男だ。口はいつも上向いており笑顔は稀にしか見せない。テレビでニュースに出るときもそれは変わらない。体格も大きく七十歳という老体を感じさせない大柄で他の議員と並ぶとスポーツ選手と思うほど。
「息子というと」
「阿久津正志氏だよ。こういうことを言うのはあまりよくはないがいい噂を聞かない。他の事務所でも彼に……されたという被害者が相談に来たと聞いている」
「その人たちはどうしたんですか?」
「皆、示談が成立している」
「それって!」
 鏑木が頷いた。彼がいいたいことそれは被害者に金で解決させているという事だ。なかにはそれで合意したものもいるかもしれないがそれで済まされていい話ではない。葵は繋いだ手をしっかりと握りしめていった。
「あなたはどうしたいの?」
「わたし……わた、しは……彼を訴えたいです……」
 そういうと泣き崩れてしまった。娘の肩を母親は両腕で抱きしめる。葵もまた彼女が鳴くのをやめるまでじっと手を繋いでいた。
 葵はひどく、堪らなく、感情を押えられなくなる時がある。女性に対しての差別や暴力だ。現代は社会に進出し男女平等を謳っているが綺麗事でいかないのが社会だ。体質や体格で劣る女性に対する差別意識はまだ払拭されていない。
 そればかりか今回のような被害者がいる。ただの女が男に力で勝てるはずもない。いくら抵抗しようとも抗えるものはそういない。手を握る彼女のような存在ならば尚の事。
 泣き終えるといくつかの話を聞くがすでに夜の七時を回っていた。
 この件に関しては明日からということで合意し親子は事務所を去って行く。二人がいなくなった事務所で今後の日程を決めると葵も帰路に着いた。電車のなか、流れる暗い景色を見る。ビルに灯る光はぼやけて見える。
 ……今夜は実がいないんだったな。
 仕事が終わった後、実は海藤と会う予定になっている。いつもの通りなら家に帰ってくるのは一時近くになる。それからすぐにベッドに入って眠りにつく。風呂は朝入ることになる。
 葵は電車を降りると帰り道に一軒だけあるコンビニに寄る。
 雑誌のコーナーにある女性向け週刊雑誌を手に取る。いつもならこのような情報の不確かな井戸端会議用の雑誌など買う気さえ起きないのだが被害者の親子を思い手に取った。また弁当も一つ買う。できるだけヘルシーなものを選ぶ。
 一人、家に帰り被害者の話を思い返しながら雑誌をめくる。
 加害者の父である阿久津一郎は堂々と誌面に載っていた。
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プロフィール

Author:之ち
之ち(ユキチ)

小説中心に活動中。
ジャンル問わず面白ければ好き。
大阪在住・12/28生
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