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第5話 催眠療法開始

 ――吸って、はいて、吸って、吐いて……

 水嶋椿の言葉が繰り返される。ベッドに寝かせられてからずっと彼女は声をかけ続けている。単調なリズムを身体に刻む込むように深呼吸を続けさせる。
 自分がメトロノームにでもなった気分だったが悪くは無い。それどころか水嶋の声にしたがって深呼吸を繰り返すと心が落ち着く。
 雑念が消えて吸っている空気の匂いや味にまで敏感になる。
 やってきた時は感じもしなかったが診察所はほんのりと甘い匂いがしていた。

 ――暗い闇の中にキミはいる……どこへ行くわけでもなくそこにいるんだ……

 目蓋を閉じているのだから当然のことだ。だが実の意識はたしかにその闇を形成していく。目蓋の裏側には本来とは別の闇が広がる。彼が見ている世界が変わっていく。自分で作り出した闇が身体を冷やす。
 さらに繰り返す呼吸のなか、やがて自分はどこにいるか解からなくなっていく気がした。自分は確かに診察室のベッドの上で寝ていて、水嶋椿の声を聴いているだけだというのに今はもう闇の中に独りいるだけだ。

 ――やがてキミに闇の中から一筋の光がさす……それはとても暖かくて眩しい光だよ……

 水嶋の声だけが響く。彼女の声によって本当に光が見えた。暗い闇のなかには光なかった。なのに確かに光が現れた。闇のなかに現れた光の眩しさも感じる事ができた。まるで太陽だ。小さな小粒だったが闇の中では生まれたばかりの太陽は輝いて見える。

 ――さぁ光に手を伸ばそう、暖かいだろう、光はキミを癒してくれるんだ……

 水嶋の言う通りにする。腕は思った以上に軽く力を入れる必要が無かった。自然と光に向かって伸びる。手が暖かい空気に触れる。光は直接触れる必要がないくらいに熱く輝いている。
 そして身体がふわりと軽くなった。
 まるで暗い闇は海の底で光は太陽のようにさえ思えてくる。
 その太陽に手を伸ばせば身体が軽くなる。

 ――さぁゆっくりと呼吸して、すって、はいて……すって、はいて……キミは身体の疲れが取れていく、光が疲れを吸収してくれてるんだ……

 体重がなくなったようだった。もう何も考えられず、腕が伸びているのかさえ判断がつかない。聴こえてくる声がすべてだった。
 じっと身体を動かさず光に手を当てる。
 やがて水嶋の声さえなくなって時が流れた。

 ――さぁ、身体が癒えただろう、手を降ろして、息を整えよう……

 声が聴こえた。実には思考というものが存在していなかった。人形のように水嶋の声の通りに動き呼吸を整える。身体が憶えているのだ。吸って、吐いての繰り返しを。
 浮遊感に包まれたまま呼吸を繰り返すとまた声が聴こえてきた。

 ――キミを包んでいる闇が消えていくよ、癒えた身体がベッドに戻ってくるんだ……

 そうだ、自分は診察室のベッドに寝そべっているのだ。
 背中にマットの感触を感じると闇は目蓋の裏側だと気づく。眉間にぴくりとしわが寄り光も消えた。それまでの妙な空気や感覚は薄れていった。診察所の甘い匂いも鼻腔をくすぐるほどにもならなくなる。
「さぁ、ゆっくりと目を開いて」
 水嶋の声がはっきりと聴こえてくる。視界はぼんやりとしていた。
「動かなくていいから、どうだったかだけ聞かせてくれないか?」
「すごく気分がいいです」
 まず声が出る事に驚いた。そして問いに何気なく返答したことにも驚いた。
「どうやら第一段階は成功のようだね、キミは暗示に掛かりやすい性質らしい」
「駄目な事ですか?」
「まさか……最高の逸材だよ。これからもよろしく頼むね、沢木くん」
「……はい」
 実は頭の中がぼんやりとしていたが答えた。あまりにも気分が良すぎて考える事もできなかったほどだ。
「もう二十分ほどゆベッドでっくりとしているといいよ。なにせ初めての催眠だったんだからね」
 実は今が何時かも忘れてじっと天井を見上げている。身体に力が篭もらない。虚脱したのではなく力を入れようとする意志が無いのだ。ベッドで寝そべりながら時間がさらに流れるのを感じていた。

 目を覚ますと朝だった。沢木実は先日の催眠治療によるものなのか身体が軽く感じられ、寝起きの身体でもすぐに立ち上がることができた。昨日までの疲れが嘘のようだったのだ。
 しかし葵はすでに起きているらしくベッドには自分だけが横になっていた。実は顔を洗いにいくともう朝食の用意に取り掛かっている葵の姿が目に入った。「おはよう」声をかけると彼女はいつもの笑顔で「おはよう」と返してくれる。葵の笑顔はもう見慣れたはずなのに今日は一段と輝いて見える。
 吸い寄せられるように近付いて肩に手を置いて声をかける。
「今日の朝はなにかな?」
 一瞬、葵がドキリとしたようで肩をすくめた。突然のことで驚いたらしい。それもそのはずで実がこのようなスキンシップを取る事は珍しい。
「ど、どうしたの?」
「どうもしないよ。ただ、気になったんだ」
 葵の腕が止まる。作っているのは味噌汁らしい。特に危険は無い。
「もうすぐできるから顔を洗ってきて」
「うん」
 言われてもしばらく肩に手を置いたままだった。無性に彼女の熱を感じていたいと思っていた。こんなことははじめてだった。
 名残惜しそうにして洗面所へ行くと鏡に写った自分の顔がやけにさっぱりしているように見える。これも昨夜の催眠治療によるものなのかとじっくりと顔を見つめて考えるものの答えなどでようはずもない。実は早々に顔を洗って葵の元へと向かった。
 朝食は出来上がった状態でテーブルに並べられている。
「やけに気分が良さそうじゃない」
 着席するなり葵がいった。
「そうかな?」
「そうよ。昨日の夜、何かあったの? 随分と遅かったみたいだし」
 昨夜、催眠治療を終えて帰ってくると葵はすでに眠っていた。彼女を起こさないようにしてベッドへ潜りこんだのだ。
「ああ、うん……それなんだけどさ。僕も葵と同じようなええっと……催眠療法っての受けることになったんだ」
「えっ!? まさかっ!」
 言った瞬間、大きく跳ねるようにして立ち上がった。声も大きく彼女以上に実が驚いてしまった。
「待って、そんな大事じゃないんだ。信哉の先輩が被験者を募ってたらしくてね。そのお手伝いさ」
「そ、そう……お手伝い……」
 尻が再び椅子に戻る。さすがに突然すぎる言い方だったかと実は思いつつも話を続ける。
「葵がどうってわけじゃないんだ。だから気にしないで。それに協力したら報酬も出るんだって。それでどこか旅行に行こうよ」
「旅行か……そうね、わかったわ。でも何か不安な事とかあるなら言ってよね」
「解かってるよ」
 先に催眠治療を受けたのは葵である。理由はストレスの蓄積による疲労。精神から来る肉体の疲労に彼女は倒れたことがある。その辛さは彼女がよく知っている。もし夫である実が同じ治療をはじめたと聞けば気が気でないだろう。そんなことは予測できたはずのだが実は口を滑らしたかのように言うほかなかった。
 二人は朝食を食べ終わるとすぐに出社となる。一度は心を乱した葵だが駅までの間には気分を取り戻したのか笑顔で分かれることとなった。
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tag : NTR催眠療法プログラム

2012-12-17 : 小説 : コメント : 0 : トラックバック : 0
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